官能小説・エロ小説(約 12 分で読了)
赤い月を見ている〜青木優編①〜
投稿:2026-03-11 13:28:15
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夜の街は、昼間とはまったく別の顔を持っている。
ネオンサインが濡れたアスファルトに滲み、酔客たちの笑い声と香水の匂いが混ざり合う時間帯、青木優はいつもロッカールームで鏡に向かっていた。
アイシャドウのパレットを手に取り、指先でまぶたに色を重ねていくその作業は、もはや彼女にとって儀式のようなものだった。
素顔の自分を消し、「遥」という別の人格を纏う。ひとつの皮膚を脱ぎ捨てて別の皮膚をまとうように、それがこの場所で生き抜くための方法だった。
あの頃、優は二十歳だった。
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1994年生まれの優が大学に入学したのは2012年のことだ。福岡から単身上京し、早稲田大学商学部へ進んだ。4人兄弟の長女である優の下には、二歳下の弟、三歳下の弟、五歳下の妹がいた。両親が仕送りに充てられる余裕などあるはずもなかった。
合格通知を手にしたとき、父は「よかったな」とだけ言い、それ以上は何も言わなかった。その沈黙の意味を、優は十分すぎるほど理解していた。
上京が決まったとき、父が唯一口を挟んだのは住む場所のことだった。学費のことも、仕送りのことも、父は多くを語らなかった。
ただ、「女の子がひとりで東京に出るんやから、マンションだけはちゃんとしたとこにしなさい」とだけ言った。福岡弁の混じったその言葉が、優には少し意外だった。
あの寡黙な父が、そこだけは譲らなかった。結局、セキュリティのしっかりした女性専用マンションを選んだ。月々の家賃は奨学金でかろうじて賄えた。それが優にとって、東京での最初の拠り所になった。
しかしそれだけで東京の暮らしが成り立つほど現実は甘くなかった。入学してすぐ、優は自宅近くのファミリーレストランでアルバイトを始めた。
時給は都心にしては低く、どれだけシフトに入っても手元に残るのは雀の涙だった。光熱費、食費、教科書代——細かな出費が積み重なるたびに、通帳の残高は底をつきそうになった。
福岡にいる両親に電話するたびに、優は「なんとかやってる」と繰り返した。下の弟たちのこと、妹のことを思えば、それ以外の言葉を彼女は持っていなかった。
長女とはそういうものだ、と優は信じていた。少なくとも、そう信じることが、これまでの自分を支えてきた。不満を口にしない。泣き言を言わない。ひとりで抱えて、ひとりで処理する。その積み重ねが優という人間を形づくっていた。だから、溢れ出そうになるものをいつも、ぎりぎりのところで押さえ込んでいた。
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転機は、二十歳を超えたある昼下がりのことだった。
講義が終わり、優がひとりで教室を出ようとしたとき、同じ商学部の同級生が不意に声をかけてきた。それまでほとんど話したことのない相手だった。
「青木さんって、何かバイトしてる?」
唐突な問いだった。優は少し警戒しながら、ファミレスでと答えた。
「そっか。ねえ、うちのバイト先で一緒に働かない?時給、全然違うから」
村田倫子——その名前と顔は知っていた。同じ商学部で、いつも誰かと笑いながら歩いている子。それだけの認識だった。
時給、全然違うから。
その言葉が頭の中で反響した瞬間、優の脳裏にはいくつかの言葉が反射的に浮かんだ。夜の仕事。売春。闇バイト。根拠があったわけではない。ただ、「時給が全然違う」という言葉が持つ含意を、優は本能的に嗅ぎ取っていた。体が先に答えを出していた。
「ごめん、今のバイトで足りてるから」
愛想笑いとともにその場をやり過ごした。村田は特に気分を害した様子もなく、「そっかあ、興味が出たら声かけてね」と軽い調子で離れていった。
それで終わりのはずだった。
しかし、それからの日々は思いのほか優の心に引っかかり続けた。
大学、ファミレス、自宅。大学、ファミレス、自宅。優の一日はその往復で完結していた。講義中はノートを取り、バイト中は愛想よく振る舞い、部屋に帰れば教科書を開く。
それ自体は何も間違っていない。間違っていないはずなのに、何かが少しずつ澱のように溜まっていく感覚があった。疲れ、と呼ぶには大げさで、不満、と呼ぶには曖昧な何かが——それはもしかすると、ずっと以前から優の中に在りながら、名前を持てずにいたものかもしれなかった。
そのくせ通帳の残高は一向に余裕を持たなかった。奨学金は家賃に消え、ファミレスの時給では光熱費と食費を賄うのがやっとだった。
福岡の両親に電話するたびに「なんとかやってる」と繰り返しながら、優は自分がどこへ向かっているのかを、うまく言葉にできないでいた。
そんな中で、優は講義の合間に村田倫子のことを観察するようになっていた。
村田はいつも誰かに囲まれていた。学食でも、図書館の前でも、キャンパスの芝生の上でも。声が大きいわけでも、特別な美人というわけでもない。
ただ、彼女の周りには常に笑い声があった。バイトの話をするときも、旅行の話をするときも、どこか余裕があった。お金の匂い、というより、時間の余裕の匂いがした。
あの子は、何が違うんだろう。
優が自覚したのは、自分が村田を羨んでいるということだった。友達の多さではなく、あの余裕そのものを。生活に追われていない人間特有の、あの軽やかさを。そしてそれと同時に、もっとそろそろと、もっと慎重に認識し始めたことがあった——自分がとっさに拒絶したあの誘いを、まだ頭の中で転がし続けているということを。
捨てたはずのものが、捨てられていなかった。
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ある昼、優は意を決して村田に声をかけた。学食の列に並んでいる村田の隣に、自然を装いながら近づいた。胸の中で言葉を何度も組み立て直しながら、できるだけさりげなく、こう切り出した。
「この間のバイトの話、もう少し聞いてもいい?」
村田は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの屈託のない笑顔に戻った。
「もちろん。どこで話す?」
その日の放課後、ふたりは大学近くのカフェに入った。向かい合って座ると、村田はメニューも開かずに話し始めた。
「キャバクラなんだけど、怖くないよ。お酒注いで、話し相手するだけ。手を出してくる客はボーイが飛んでくるし、店のルールもちゃんとしてる」
思ったより、あっさりと言った。隠す様子も、誇張する様子もなかった。優は黙って聞いた。
「時給は五千円から始まって、指名がつくともっと上がる。私は今、月に十五万くらい稼いでる。この業界、女子大生ってだけでブランドになるから」
十五万。優はその数字を頭の中で転がした。ファミレスで同じ金額を稼ごうとすれば、どれだけシフトに入らなければならないか。計算するまでもなかった。
「源氏名は自分で決めていいし、大学名も本名も出さなくていい。私も誰にも言ってないし」
村田はそこで初めて少し声を落とした。
「怖いのは最初だけだよ。私もそうだったから」
優はコーヒーカップを両手で包みながら、しばらく黙っていた。怖い、という感情はまだあった。しかし、あの反射的な拒絶はもうなかった。恐怖の形が、最初とは少し変わっていた。あのとき自分を守ろうとして咄嗟に閉じた扉は、もうきちんとは閉まらなくなっていた。
「一回、見学だけでもどう?採用面接みたいなもんで、気に入らなければ断れるから」
優は小さく頷いた。
店を出て、ふたりで夜道を歩き始めてしばらくしてから、優はずっと気になっていたことを口にした。
「ねえ、なんで私に声かけたの?ほとんど話したこともなかったのに」
村田は少し考えるような間を置いてから、あっけらかんと答えた。
「男ウケしそうな顔と体してたから」
優は思わず足を止めた。褒められたのか、値踏みされたのか、判断がつかなかった。羞恥とも怒りとも違う、奇妙な居心地の悪さが胸の中に広がった。自分が品定めされていたという事実を、こんなにも無邪気に告げられるとは思っていなかった。
「そんな顔しないでよ」と村田は笑った。「褒めてるんだから。あの業界、顔と雰囲気で全然変わるんだよ。私が最初に青木さん見たとき、女の私でもこの子に好かれたいって思ったもん」
その言葉は、さっきとは少し違う形で優の胸に刺さった。居心地の悪さが、不思議と和らいでいた。値踏みではなく、どこか純粋な告白のように聞こえたからだ。村田は嘘をつくような顔をしていなかった。ただ思ったことを、思ったままに言っている。そういう人間なのだと、優は直感的に理解した。
話を聞き終えたあと、悪い気分はしなかった。
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面接は数日後の夕方だった。優はその日、ジーパンに薄手のセーターを選んで家を出た。軽い女と思われたくなかった。キャバクラの面接に向かいながらそんなことを気にしている自分を、優は可笑しいとも思ったし、それでもやめられなかった。長女として二十年間守り続けてきた何かが、まだ優の中で緊張して立っていた。
店は繁華街の雑居ビルの四階にあった。待ち合わせに指定された時間に村田と合流し、エレベーターに乗る前にふと空を見上げると、赤い月が浮かんでいた。
それは夜の始まりにしては、あまりにも不思議な色をしていた。暗い空の中で燃えるように輝く赤銅色の満月は、いつもの白い月とはまるで別の天体のようだった。
昼間の光を失い、それでも消えずに、暗闇の中でその色を主張している。優はしばらくそこに立ち尽くした。足が前へ進もうとしないのではなく、目が月から離れなかった。
あの赤い月を見て、優が何を感じたかを、後から正確に言葉にすることは難しい。ただ、何か大きなものを前にしたときに体の奥から湧いてくるような、静かな、しかし確かな感覚があった。
恐怖とは違った。諦めとも違った。あえて言えば、それは覚悟というより、もっと柔らかい何か——これまで自分を縛っていたものが、音もなく、しかし確かに、緩み始める感覚に似ていた。
「どうしたの、行かないの?」
村田の声で、優は我に返った。
「ううん」と優は言い、再び月を一度だけ見上げてから、エレベーターのボタンを押した。
重い扉を開けると、開店前の店内はまだがらんとしていた。照明は落とされ、テーブルの上にはグラスが並べられている最中だった。出てきたのは三十代とおぼしきママで、優の顔を一瞥し、ソファに座るよう促した。
「大学生?何年?」
「三年です」
「バイト、初めて?こういうの」
「はい」
「お酒は飲める?」
「お正月に少しだけ」
「あぁそっか、最近二十歳になったんだね」
「はい」
「仕事でお酒飲むことあるけど大丈夫?」
「少しなら…」
「まぁね、顔はいいからね…」
ママは特に表情を変えなかった。いくつかの決まりごとを淡々と説明し、最後にこう言った。
「源氏名、知ってる?」
優が答えを探すより先に、ママが優の顔をしばらく眺めてから口を開いた。
「井川遥に似てるから、遥でいいかな?」
知っている女優の名前を告げられて驚いたが、優は小さく頷いた。
「じゃあ、遥ね」
ママは手元のノートにさらさらと書き留めた。それだけのことだった。自分の名前が、たった数秒で決まった。青木優という名前がここでは必要とされない。
二十年かけて育ててきた名前を、あまりにも簡単に、誰かが別の場所に置いていった。そのことに、優は奇妙な軽さを覚えた。重荷が消えたような、あるいはずっと知らなかった自分の輪郭が、ふと浮かび上がるような。
「じゃあ、今から体験入れる?」
断る間もなかった。優は気がつけば「はい」と答えていた。自分の声が、少し遠くに聞こえた。
---
ドレスを選ぶよう促されたのは、その直後だった。ママに連れられてクローゼットの前に立つと、ハンガーにずらりと並んだドレスが目に飛び込んできた。
分かっていたことだった。分かっていたはずだった。それでも優は、思わず息を呑んだ。どれも丈が短く、背中が開き、肩が出ていた。
できる限り肌の露出が少ないものを選んだ。それでも選んだドレスの裾は膝上で、袖はなかった。鏡の前に立ち、自分と重なったドレスを見つめながら、優はしばらく動けなかった。
女子校時代、スカートはいつも膝下だった。それが当たり前だったから、鏡の中の自分の膝が、やけに白く、やけに露わに見えた。
しかし優は、その鏡の中の自分を、思ったより長く見つめ続けた。逃げたいわけではなかった。ただ、見知らぬ誰かが自分の皮膚の中に立っているような違和感を、どこかで確かめたかった。
これが遥なのか。
これが、自分でない自分なのか。そして、遥を名乗ることで、青木優は何かを失うのか、あるいは——。
答えは出なかった。
着替えのためにロッカールームへ通されると、すでに数人の女性たちが出勤の準備をしていた。二十代前半とおぼしき彼女たちは、慣れた手つきでドレスに着替え、鏡に向かってメイクを直していた。女子校で六年間、同じ空間で着替えることには慣れていた。
それ自体は苦ではなかった。
ただ、優は自分の下着に気がついたとき、思わず身をすくめた。高校生のときに買ったものだった。
レースもなく、色もピンクで、どこか幼さの残るデザインだった。周りの女性たちが身につけているものとは、明らかに違った。
今まで彼氏がいたこともない優は自分の下着のことを考えたこともなかったのだ。
誰も見ていなかった。誰も気にしていなかった。それでも優は、人目を避けるように、できるだけ素早く着替えた。顔が熱かった。
それは恥ずかしさであると同時に、もっと正直に言えば、自分がどれほどこの場所に対して何も準備していなかったかという事実の、目に見える証拠だった。下着ひとつで、青木優はまだどこかに残っていた。「遥」になりきれていなかった。
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ドレスを纏い、ロッカールームを出ると、ママが廊下で待っていた。そのままホールへ連れられていくと、すでに数人の女性たちがテーブルにつき、開店前の時間を思い思いに過ごしていた。話し声が途切れ、視線が一斉に優へ向いた。
「今日体験で入る子です。みんな仲良くしてあげてね。名前だけ言えばいいから」
ママの言葉に促され、優は一歩前に出て、背筋を伸ばした。
「遥です。よろしくお願いします」
自分の口から源氏名が出たのは、それが初めてだった。薄い笑みを浮かべながら、優は自分がいま別の誰かになったことを、静かに確認していた。
しかし、その確認は思ったよりも苦ではなかった。むしろ、名前を変えたことで、長女でも、模範的な大学生でも、誰かの期待を背負った人間でもない、輪郭のない「誰か」として、この場所に立てる気がした。
重いはずの何かが、少しだけ軽くなっていた。
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開店から三十分が経った頃、ママに呼ばれた。最初に通されたのは、美怜の席だった。
美怜は店のNo.1だと倫子から聞いていた。実際に目の前に立つと、その意味が分かった。背が高く、肩の出たドレスを纏った姿は隙がなく、それでいてどこか柔らかかった。優が「失礼します」と声をかけると、美怜はちらりと視線を向け、小さく頷いた。それだけだった。
席には四十代とおぼしき男性客がふたりいた。優はソファの端に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「今日体験で入りました、遥です。よろしくお願いします」
声が少し上ずった。男性客のひとりが「遥ちゃんか、かわいいね」と言った。優は笑顔を作った。作った、という感覚がはっきりとあった。
あとは美怜の話す声を聞きながら、相槌を打ち続けた。男性客がたばこを取り出した瞬間、美怜の手がスーッと伸びてライターの火をたばこの先に灯した。一連の動作に迷いはなく、会話の流れを一切乱さなかった。
吸い殻が一本溜まったところで、優は素早く灰皿を交換した。グラスの結露をさりげなく拭い、水割りを作るよう目配せされて、ウイスキーとミネラルウォーターを静かに注いだ。手が少し震えた。
美怜はそんな遥をちらりと見て、何も言わなかった。それが合格なのか不合格なのか、遥には分からなかった。
二席目は、紗季(倫子)が担当するテーブルだった。そこに座っていたのは、二十代後半とおぼしき三人の男たちだった。三人は一見すると爽やかで、洗練されたカジュアルなスーツを着こなしていたが、体育会系特有の若く傲慢な熱気を帯びていた。
遥は、慣れない手つきで封を切ったばかりのウイスキーのフルボトルを手に取った。重厚なクリスタルカットが施されたそのボトルは、ずっしりと重く、二十歳の彼女の細い手首には片手で持つにはいささか荷が重かった。
低いテーブルに置かれた三つのグラスへ均等に注ごうと思うと、思いのほか腕に力が要った。重いボトルを前へ差し出すたびに、バランスを保つのに精一杯で、太ももの隙間に気を配る余裕はなかった。
「遥ちゃん、それ重いよね。大丈夫?」
右の男が、わざとらしく顔を近づけた。男の体温と香水の匂いが押し寄せたが、優は「大丈夫です」と健気に答え、グラスへ神経を尖らせた。
そのとき、ボーイが耳打ちした。
「紗季さんご指名です」
「ごめんね、すぐ戻るから!」
紗季が席を立った瞬間、場の空気がわずかに変わった気がした。男たちは視線を上下させ会話していたが、遥はボトルを倒してはいけないという緊張のあまり、その変化を正確に捉えることができなかった。
「遥ちゃん、本当に真面目なんだね。九州の子って、みんなそんな感じなの?」
遥の左に座った男がそう言いながら、全身を捻りながら彼女の正面を覗き込む。右側の男二人はその様子を見て不敵に笑った。
「真面目かなぁ…」
遥は紗季のような、会話の巧さは持ち合わせていなかった。
一人取り残されたその空間は、彼女にとって呼吸すらままならないほどの毒を孕んでいた。
「失礼があってはならない」——。
その切実なまでの強迫観念が彼女を縛り付け、その健気で歪な献身が、皮肉にも男たちの嗜虐心を煽る最上のスパイスとなっていく。
右隣の男が、遥の不慣れな所作から全てを察したかのように、じりじりと肉の壁を寄せて逃げ場を塞ぐ。
その圧倒的な圧迫感に、遥はただ目の前の琥珀色の液体に逃避するしかなかった。
男たちがグラスの縁で交わす陰湿な企みに、気づく余地など一瞥も残されていない。
一人の時間はあまりに感じ全力疾走のあとのような鼓動が、薄い胸板を内側から激しく叩く。
荒くなる呼吸を必死に押し殺そうとすればするほど、息は苦しく指の末端から痺れが体を浸食していった。
二杯目の水割りを作り終えた頃には、指先はおろか、重なり合う太腿の感覚さえもが、自身の意識から切り離された存在となりかけていた。
三杯目。遥は必死に倒れてしまいたい気持ちを抑え、痺れて言う事を聞かない下半身に渾身の力を込め耐えていた。
しかし、必死に耐えれば耐えるほど、弦のように張り詰めていくタイトなドレスの裾。太腿の間には無情な隙間が生まれていく。
その秘められていたその奥底へ、間接照明の妖艶な光が嘲笑うかのように容赦なく差し込んだ。
その瞬間、左側の男の眼光が、獲物を捉えた猛禽類のように鋭く光った。
「三杯目、作ってるところ撮らせてよ。」
そう言って抗う間もなく向けられたスマートフォン。
そのレンズが、遥の顔を正面から捉えたとき彼女は精一杯の「プロの顔」を取り繕った。
やがて、満足げにニタついた男の顔からスマートフォンがゆっくりと膝の上へ下ろされると、遥は微かに頬の緊張を緩めた。
「撮影は終わった」——その判断が、遥に束の間の安堵を与えてしまった。
緊張を緩めた彼女は、自分の足元で今なお蠢く悪意に気づくことはなかった。
写真撮影を装ったその画面は、今もなお、闇の刻(とき)を刻み続けている。
膝の上へと沈められたレンズは角度を変え、無防備に晒された秘所を卑劣なまでに暴き立てていた。
スマートフォンの画面の中には、妖艶な光に照らされてた、この場にはあまりに不釣り合いな、幼さを残した淡いピンクの綿。
それは、優が誰にも見られたくない彼女か遥になる前のまだ何にも染まっていない純潔だった。
それが本人の知らぬところで無慈悲に剥ぎ取られ、男たちの共有物になったことなど露ほども知ることはなかった。
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シフトが終わる頃には、足が棒のようだった。笑い続けることが、こんなにも体力を使うとは思っていなかった。ロッカールームで着替えながら、優は鏡の中の自分を見た。メイクが少し崩れていた。「遥」がほんの少しだけ、剥げかけていた。
しかし鏡の中の顔は、家を出る前の自分とも、ファミレスでエプロンをつけていた自分とも、少し違った。くたびれてはいた。それでも、何かをくぐり抜けてきた人間の顔をしていた。
体験入店を終えて外に出ると、倫子が声をかけてきた。
「どうだった?」
「なんとか、でした」
ふたりで夜の繁華街を歩きながら、優はぽつりぽつりと話した。最初の客に何を話せばいいか分からなかったこと、愛想笑いが引きつりそうだったこと。倫子はそのひとつひとつに、経験者らしい相槌を打ちながら聞いていた。
しばらく歩いたところで、倫子が不意に足を止めた。
「ていうか、もう村田さんってやめてよ。他人みたいじゃん。倫子って呼んでよ」
優は少し驚いて、それから小さく笑った。
「じゃあ、倫子」
「そう」と倫子は満足そうに頷いた。「最初からそう呼んでくれればよかったのに」
ふたりの距離が、その一言で決定的に縮まった気がした。繁華街の喧騒の中で、優はあの赤い月のことを、ふと思い出した。
見上げると、空はすでに深い藍色に沈んでいて、あの色は見当たらなかった。あの月は、もうどこかへ行ってしまったのか。それとも、見ている自分が変わってしまったのか。どちらとも言えなかった。
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(2020年05月28日)
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